白村江の戦いとはをわかりやすく!場所や時代は?天皇は誰だった?

日本史で一番最初に登場する、外国との大きな戦いに「白村江の戦い」があります。

あまりにも年代が古すぎて、この戦いを知っても意味がないのではないか?と思いがちですが、この時から、既に外国との貿易・外交・防衛は始まっていて今に通じています。

白村江の戦いを知れば、現代の外交の在り方の参考的概念が見えてきます。

ぶったぎり君

白村江のたたかい・・

はくそんこう?

はくすきのえ?

どっちの読み方だと思う?

まなぶ君

正解はどちらでも結構ということでしょう。

ぶったぎり君

正解!

ちなみに僕は中学生当時、「はくそんこうのたたかい」で覚えさせられた記憶があるよ。

まなぶ君

この部分は日本史の授業であっという間に流れていきますよね。

4月に新しい学期が始まり、クラスにも新鮮味の空気感が漂い、少しばかり緊張感もある時期に大抵「白村江の戦い」を授業で習います。

そんな時期に習っても、もはや全く頭の中に残っていません。

ぶったぎり君

たしかに。

でも実は結構大事な事柄がたくさん詰まっている出来事なんだよね。

まなぶ君

学生の頃ほとんど現況してこなかった過去が悔やまれます。

ぶったぎり君

今からでも全然遅くないよ!

この日本にとっても大事な「白村江の戦い」がどんなものであったか、一緒に見ていこう!

まなぶ君

お願いします。

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白村江の戦いとは

白村江の戦いとは、663年におこなわれました。

日本と百済の連合軍 VS 唐と新羅の連合軍

という図式です。

そもそも朝鮮半島では、「高句麗」・「百済」・「新羅」という三つの国が覇権を争いしのぎを削っていました。

そんな中、お隣では「唐」という巨大国家が建国されていました。

唐は今の中国の前身のような国ですが、今も昔も大陸を侵略していくという考えに余念がありません。

ぶったぎり君

唐は大陸侵略のために、陸続きのお隣の国「高句麗」や海を渡ってすぐの国「百済」に攻め入ろうとしていたんだよ。

まなぶ君

新羅という国は、高句麗と百済に挟まれ攻撃されていたのですよね。

なので新羅としては唐に高句麗や百済を倒してほしい・・

ってことで唐と新羅は手を組み連合軍となったのですね。

元々、当時の日本と百済はお互いに行き来する親密な外交関係が存在していました。

当初は「百済」VS「唐・新羅連合軍」であり、百済はただでさえ分が悪いにも関わらず、大飢饉なども同時に起き、まさにフルボッコにされてしまいます。

百済は親密な外交関係にある日本に助けを求め、日本もそれに呼応する形で、百済からの難民を受け入れ、戦いに参入していきました。

そうした結果、「百済・日本連合軍」VS「唐・新羅連合軍」という構図になり、白村江の戦いに入っていったのです。

 

場所や時代は?天皇は誰だった?

(出展:http://d.hatena.ne.jp/supernil/20111020/1319097790)

白村江の戦いは文字通り、「白村江」という地名の場所でおこなわれました。

※この辺です。

この戦い、一度きりではなく実際は3回に渡り日本は白村江に軍隊を送りました。

当時の天皇は「斉明天皇」でしたが、この斉明天皇も自ら戦地へ赴こうとしていたほど、日本は本気で白村江の戦いに望んでいたのです。

※ちなみに斉明天皇は白村江の戦いが行われている最中に、日本で亡くなっています。

最初から白村江にて戦いが始まったのではなく、白村江は百済と日本の人や物の受け渡し場所だったのです。

日本が百済に援軍として軍隊を送る際も、この白村江で受け渡しをしていました。

そんな中、3回目の援軍を百済に送った際に、この白村江で「唐」の軍隊と鉢合わせます。

もちろんここには百済の軍隊も日本からの援軍のお迎えでやってきていましたので、軍隊同士が1か所で鉢合わせたため、全面戦争に突入していったのです。

これが白村江の戦いの全容です。

唐の圧倒的な軍備力に圧倒され、日本軍は大敗し残った軍隊は逃げかえってきたのです。

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白村江の戦いから学んだこと

(出展:http://yayoigaoka-seminar.com/juniorschool/syakai/rekisi/22asuka-taika/hakusukie.html)

この戦いで、初めての大敗を喫した日本は、国の在り方というものを考えさせられました。

”国防”・・

こうした考えが強く考えられ始めたのがこの時期です。

「唐」という大国の強さを分析したうえで、日本も唐の国家体制を取り入れようとします。

まず、「唐・新羅連合軍」の、もしもの日本侵略の場合に備え、大宰府に水城や山城を建設しました。

そして、朝鮮半島と日本(九州)の間の対馬と筑紫には”防人”を置き、国防にあたりました。

さらには、唐の国家体制に習い、近江令をつくりました。

(現存していなく内容は不明。国家の法律のようなものだと思われる。)

そして、庚午年籍(最初の戸籍制度)もつくり、国家としての姿を整えていきました。

ぶったぎり君

白村江の戦いでの大敗があったから、国家という枠組みが強く意識されていったんだね。

まなぶ君

今ではこの時代は「古代」なんて表記がされていますが、普通に外交もしていましたし、ちゃんとよく見ると今の時代とやっていることはほとんど変わりません。

ぶったぎり君

まぁでも第二次大戦前の日本もそうだったけど、大陸にわざわざ行ってちょっかいだすと、ろくなことにはならないってことだよね・・。

まなぶ君

その点の反省が活かされていれば、大日本帝国という失敗もなかったのでしょうかね・・

ぶったぎり君

あれはあれで時代の流れもあっただろうし・・

難しいところだよね・・。

 

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