明治時代の流れのわかりやすいまとめ!徴兵令や戦争の始まりは?

明治時代の政治基盤

明治時代の日本人の最大の目標は、

外国からの脅威に打ち勝つための力をつける事!

この目標を達成する為に

・国内政治の整備

・軍事力の強化(外国との戦争)

・経済力の強化(産業の発展)

という政策を実行していきました( ..)φ

こうした背景の中、明治時代がどう動いていったかを簡単に見ていきましょう!




 

 

明治時代、前半の流れ

 暴走の始まり?

『外国の脅威に打ち勝つため!日本人を精神的にも肉体的にも強くする!』

東はアメリカが、西からはロシアを始めとしたヨーロッパ諸国が徐々に勢力を拡大し、日本の領土に迫ってきていました。

日本は、この状況を打破し国の尊厳を保つため、ある考えが巻き起こります。

『征韓論』です。

 

征韓論の内容

『外国がやっている行為(他の国に侵攻し、その国に不平等条約を結ばせ実質的な支配をする)を、日本もやっていこう!さもなければこのまま侵攻される側となり、日本は消滅する!』

というものです。

非常に残念な考え方にも思えますが、この時の状況からしたら、致し方ないとしか言えない自分もいます。

で、この征韓論を唱えたのは、西郷隆盛だと言われています。

西郷隆盛、もっといい奴かと思っていたのですが残念ですね・・

と言いたいところなのですが、実はこれ、西郷隆盛自身の描いていた征韓論は少しニュアンスが違っていたのです。

西郷隆盛
『外国がやっている行為(他の国に侵攻し、その国に不平等条約を結ばせ実質的な支配をする)に対抗するため、まずは朝鮮と和平交渉をして手を組み、お互いを守り合っていこう!さもなければこのまま侵攻される側となり、日本は消滅する!』

西郷隆盛をこう主張していたのです。

現代の外交にとても近い考え方ですよね( ゚Д゚)

しかし、征韓論者には、『日本も外国と同じように他国を侵略するべき!と主張する者(特に政府の役人)が多く、西郷隆盛の考えは打ち消されました。

 

政党の出現

征韓論の西郷隆盛側にいた同志たちは、政党をつくり西郷隆盛の征韓論を主張を広めていきました。

しかし政府側は政府側の主張で対抗していきます。

個のひと同士での話し合いではなく、ここからは同じビジョンを持った政党同士の話しあい(闘い)になっていくのです。

両政党共に、国会や憲法の必要性を感じていたため、それらはそう時間がかからずに実現していく。

 

日本は不平等でつらい立場

戦争に向けて、国民の意識がグッと向上していってしまったのには他にも理由がありました。

そもそも江戸時代末期に外国と不平等条約を結ばされたことは大きく関与してきます。

(江戸時代末期は日本の軍事力が弱かったため、不平等条約を結ばざるをえなかった。)

この不平等条約を改正させるため、この先も不平等条約を突き付けられないためにも、日本は軍事力を強化しがんばっていました。

補足

不平等条約を改正=侵略させない国作りが必要。

不平等条約を回避=侵略させない国作りが必要。

そんな中、外国船が日本領域内で起こした事故で、日本人が20人程亡くなります。

普通であれば、日本側でその事故の罪を罰したいところですが、不平等条約の存在のせいで、事故を起こした側の外国人はほぼ軽犯罪レベルでの処理しかなされませんでした。

 

この事件をきっかけに、日本の一般人の”軍事力強化”への想いが一気に加速していきます・・。

そして戦争の明治時代後半へ入っていく事になります・・

ここまでの要約

・征韓論を『外国がやっている侵略を日本もやっていこう!』という認識のもと日本人は進んでいった。

・団体で主義主張をしていくために政党ができた。

・外国船が起こした事故で感じた”本当の不平等さ”に国民感情の外国への怒りの感情が一気に爆発していった。

この時の国民感情の流れ、僕が神様だとしてもこの空気を止めることは出来ないような気がします。

一回どちらかの方向へ行った民意(空気)ってとても強力なパワーですからね( ゚Д゚)

こんなこと言ったら元も子もないのですが、戦争への道はなるべくしてなったとしか感じざるを得ません・・。




 

明治時代、後半の流れ

日清戦争

日本の国民感情が『外国がやっている侵略を日本もやっていこう!』となっていった結果、まずはお隣の朝鮮にその矛先が向きます。

 西郷隆盛が目指していた本当の意味での征韓論

『外国がやっている行為(他の国に侵攻し、その国に不平等条約を結ばせ実質的な支配をする)に対抗するため、まずは朝鮮と和平交渉をして手を組みお互いを守り合っていこう!さもなければこのまま侵攻される側となり、日本は消滅する!』

というものでした。

西郷隆盛亡き後、話し合いで外国と交渉など出来る人は日本にいませんでした。

というのも、朝鮮に和平交渉を持ちかけたが門前払いだったという説も存在します。

西郷隆盛であれば人間性や信念でなんとかやってくれた気もしますが・・。

こうなってしまっては、日本としては『外国がやっている侵略を日本もやっていこう!』しか選択肢がありません。

で、なぜ朝鮮に侵攻しようとしているのに、清(中国)との戦争(日清戦争)になるのかといいますと、朝鮮半島は昔から中国の属国とされています。

中国が親分で

朝鮮が子分

みたいなものです。

ですので、そんな朝鮮を手に入れる為には実質、中国からぶんどるか、許可をもらうしかないのです。

この時、日本は明治政府の政策の効果もあり、かなりの”強国”になっていました。それゆえかなりあっさりと清(中国)に勝利をしたのです。

 

日清戦争勝利後の戦利品

清(中国)に勝利した日本は

日本の戦利品

・朝鮮の独立を認めさせ
・遼東半島と台湾を日本にゆずってもらい
・多額の賠償金を日本に支払ってもらい
・欧米と結んでいる不平等条約を、日本とも結ばせました

ですが、ここでまさかのロシアが現れます。

ロシアもこの時、アジアへの侵略を進めていました。

そんなロシア側からしたら勝利した日本は煙たい存在にしかすぎません。

そこでロシアは、ドイツとフランスを味方につけ、”遼東半島”を清(中国)に返すよう要求したのです。

時代の強国に、しかも3か国に要求され、しぶしぶ日本は遼東半島を返還したのです。

このあたりから日本国民の感情が

一般人
『なんなんロシアとか!関係ないのに急に出てきてしかも怖いひと(国)つれてくるなんて超ヒキョー!』

こんな感じでロシアへの対抗心が芽生えていってしまったのです。

 

日露戦争

各国の思惑のぶつかり合いはまだまだ続きます。

日清戦争後、当時イギリスは中国の一部を植民地化していました。

ですが上からロシアが徐々にその勢力を広げてきます。

イギリスもさることながら、日本もロシアの下(南)への侵攻は絶対的に防ぎたいところでした。

そうして日本はイギリスの多少の援助を受けながらロシアとの戦争に入るのです。

 

結果は日本の勝利でした。

 

しかし、この戦争はあと少し長引いていたら日本は完全に負けていたと言われているほどの犠牲者やお金が使われ日本は疲弊しました。

そんなタイミングで今度はなんと”アメリカ”が仲裁に入ってきます。

正直この仲介は日清戦争のときのロシアとは違い、まさに渡りに船でした。そのままアメリカに仲裁をしてもらい、ロシアとの日露戦争は終わりを告げました。

 

日露戦争勝利後の戦利品

賠償金は一切ありませんでした。

小さな島をもらったくらいです。

これにより日本国民はじわじわと不満を溜めこみます。

 

しかし朝鮮における日本の優越性だけは認められ、数年後、日本は朝鮮をれっきとした”植民地”としました。

『韓国併合』といわれるものが、まさにこの事です。

 

そしてその後、日本は自他共に認められる強国とみなされ、外国との間にあった”すべての不平等条約”を改正することに成功したのです。

ここまでの要約

・日清戦争は日本と中国が、朝鮮のとりあいで起きた戦争。

・日本が勝つが、日清戦争の戦利品に対していちゃもんをつけてきたロシアに対し敵対的な国民感情が芽生える。

・ロシアの南下に抗う為&ロシアへの敵対的な国民感情のもと、日露戦争勃発。

・日本が運よく勝つが賠償金は一切もらえず。国民不満ためこむ。

・世界的には日本が強国と認められ、朝鮮を植民地にした。

明治後半はもう”戦争&戦争”ですね・・。

この辺りから日本人の”慢心”というものが出来上がっていきます。

まだまだ表面には出てきませんが、次の大正時代でそれは表立ったものになってくのです・・

前の時代(江戸時代の歴史)についての記事はコチラ

次の時代(大正時代の歴史)についての記事はコチラ

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