札幌市東区の生活困窮者向け共同住宅「そしあるハイム」で1月31日深夜に発生し、11人が死亡した火災で、共同住宅を運営する合同会社「なんもさサポート」(札幌市北区)は入居者からの生活保護費などで施設を運営し、食事を提供していた。
出展 Yahooニュース(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180201-00050131-yom-soci)
生活困窮者を救済している施設で起きた火事。
この問題の本質は一体どこにあるのでしょうか?


え、てっきり国や自治体が運営していると思っていました。

国や自治体は、実は生活困窮者向けの施設をあまりもっていないんだ。
公的な生活困窮者向けの施設に入れずあぶれ出た人たちや、公的施設から強制退所になった人たちが民間のこうした民間の生活困窮者向けの施設に入居するんだよ。

私ならなんとなく公的な生活困窮者施設に入りたいですね。
民間の施設はお金がかかりそうですし。

そうだね!
ただ、公的施設も民間施設も実は同じようにお金がかかっているよ。
・公的施設⇒直接、税金で賄われている。(運営費・人件費・本人へのおこずかい等)
・民間施設⇒生活保護費で利用料を支払ってもらい運営。(残ったお金は本人のおこずかい)
税金と言う観点では、お金の出所は同じなんだよ。

なるほど。
どちらの施設に入ろうが救済してもらえる事には変わりないのですね。

ちなみに公的施設の運営費は、民間施設の運営費の約3倍かかっていると言われているよ。
行政が運営すると何かとお金をかけるからね。(内容はそこまで変わらないんだけれども。)

利用する側としては公的施設の方が良い気がしますが、関係ない人側からすれば民間の施設に入ってほしいものですね。(その分使われる税金が減るので。)
一般的な生活困窮者施設の枠組みを見たところで、本題に入っていきます。
生活困窮者を救済する事とは一体どんな事柄なのでしょうか?
外国人は救済意識が強いが自己満足の傾向
生活困窮者施設への入所は、本人が福祉事務所へ相談に行くか、または心配した誰かに連れてこられるというパターンがあります。
前者(本人が福祉事務所へ相談に行く)の方であれば、本人の意思が最大限に尊重されているので、本人の為にも良いです。
後者(心配した誰かに連れてこられる)のパターンに関しては、本人の意思が全く尊重されていない傾向が強い事があります。
外国人の方は宗教観念が強めです。
日本に住みながらキリスト教で活動している外国人の方はたくさんいます。
こうした外国人がボランティアで路上生活者への救済の取り組みを行っていることは非常に多いです。
路上生活者の方といっても皆個性があり、考え方は異なります。
・ボランティア外国人は路上生活者を施設に入れる事が善で、それにより幸福を感じる
・路上生活者の一部の方にとって、施設生活は共同生活であり苦痛でしかない
私はこのボランティア外国人に無理矢理福祉事務所へ連れてこられる路上生活者の方を多く見ています。
路上生活者の方は、その後自分がどうなっていくか、ほとんど説明を受けていないことが多いのです。
福祉事務所へ連れてこられ、やっと自分が施設に入る事を知り、ボランティア外国人の手前いやいやながらも施設へ入所しますが、すぐにその施設を失踪してしまいます。
ボランティア外国人にすれば、『人を救った』という満足感で一杯になっていますが、路上生活者からすれば、また路上で自分の寝床(居場所)を一から探さなくてはなりません。
路上生活者の本音
私は仕事上、今までに何百人という路上生活者の生の声を聴いてきました。
施設に入りたい人、施設に入ったけど一人のがきままで良いので出てきてしまった人、路上生活仲間と路上で暮らし続けたい人。
皆さん一人一人生きてきた環境や境遇も違います。
考え方に違いがあって当然です。
ここに、『施設へ入る事が一番の幸せである。』という価値観は、正直ただのエゴや自己満足でしかありません。
本当の救済は価値観の共有をしあった上で、ボランティアをしたいのであれば、出来うる事をしてあげることではないかと考えます。
路上生活者は犬や猫ではありません。
まとめないです
人を救済することを、自分の生きる価値に変える人は多いです。
ただ、行き過ぎるとそれはもはや相手を置き去りにした自己満足にしかすぎなくなっていきます。
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生活困窮者向け共同住宅って、民間が独自にやっているだけなのを知ってる?